法律の「二元素」といわれて何が思い浮かぶでしょうか。
基礎的であるからこそ、知っておきたいその事項。法律に携わっている方でも意外と気付きがあるかもしれません。
『法典論』
穂積陳重(ほづみ のぶしげ)先生は、明治から大正期に活躍された法学者です。日本で初めての法学博士となられたほか、法典調査会(法典調査会規則(明治26年(1893年)勅令第11号)に基づき内閣に設置された法典の起草・審議・編纂を行う機関)の委員として民法典の起草に当たられるなど、日本の法制度の近代化に大きな貢献をされた方です。
もっともこのような堅苦しいご紹介をしても、あまりピンとこないと思われる方も多いのではないかと思います。NHK 朝の連続テレビ小説『虎に翼』には、主人公「寅子」の恩師として高名な法学者「穂高重親(ほだか しげちか)」先生が登場します(演じているのは俳優の小林薫さん)。この「穂高重親」先生のモデルといわれる「穂積重遠(ほづみ しげとお)」先生のお父さんに当たる方とご説明した方が、皆さんには身近に感じていただけるかもしれません。
穂積陳重先生の著作の一つに『法典論』があります。『法典論』は明治23年(1890年)に出版されたものです。文語体の文章で書かれていますが、大変格調高い文章です。
その冒頭の部分に、次のような一節があります。
法律に実質及び形体の二元素あり、
一国の法律は、果して国利を興し民福を進むべき条規を具ふるや否やの問題は、是れ法律の実質問題なり、
一国の法令は、果して簡明正確なる法文を成し、人民をして容易く権利義務の在る所を知らしむるに足るや否やの問題は、是れ法律の形体問題なり、
法律の実質の善良なるも、若し其の形体にして完美ならざれば、疑義百出、争訟熄まず、酷吏は常に法を曲げ、奸民は屡々法網を免るるの弊を生ぜん、
法律の形体は完備せるも、若し其実質にして善良ならざれば、峻法酷律をして倍々その蠱毒を逞ふせしむるの害あらん、
引用
~
穂積陳重. 法典論(p.1).
【注】 読みやすいように適宜段落に分けるなどしてあります。
法律の「二元素」
まず、「法律に実質及び形体の二元素あり」と書かれています。
法律には、
- 「実質の問題」、つまりその法律にどのような内容が規定されているのかという法律の 内容の問題と、
- 「形体の問題」、つまりその法律がどのように編成され、またその内容がどのように書 き表されているのかという法律の書き方・表現の問題がある、
ということが述べられているわけです。
法律が規定している内容がいかに素晴らしいものであったとしても、その内容が法律の条文としてきちんと明確に書き表されていない場合には、それぞれの規定の解釈を巡って人々の意見が分かれて訴訟合戦となったり、役所のひどい担当官(「酷吏」)が勝手な解釈をして恣意的な処分をしたり、あるいは狡猾な者によって法律の抜け穴を利用されたりするなど、さまざまな問題が起きてしまうこととなります。
また、法律の条文がきちんとした明確な文章によって書き表されていたとしても、肝心の法律の内容自体に多くの問題があり、国民生活に悪影響を及ぼしたり、不公正を生じさせたりするようなものである場合には、その法律は、国民の役に立つどころか、国民に害悪をまき散らすものでしかないということになってしまいます。
したがって法律は、その内容(「実質」)が適正なものであることが必要であるだけでなく、その書き方・表現(「形体」)も適正なものであることが必要であるということになります。
法律の「形体」の問題について
法律の「形体」の問題について、少し補足をしておきたいと思います。
法律については、裁判官、行政官、弁護士、学者、企業の法務担当者など職業的に法律に携わるような方を別とすれば、「法律の条文など読んだことがない」という方も多いでしょう。また、「読もうとしたけれども、途中で読む気が失せた」などという経験をした方も多いのではないでしょうか。
なぜそのようなことになるのでしょうか。法律の内容が難しいということもあるかと思いますが、「文章が読みにくい!」「書いてあることが分かりにくい!」などということを挙げる方も多いのではないかと思います。当然ながら、法令案の起草に当たる担当者が、わざわざ分かりにくい条文を作成しているわけではありません。ただひたすら「形体」において瑕疵(かし)がない法律となるように努めた結果なのです。
世の中には多種多様な文書が存在していますが、法律の文章については、権利・義務を明確に書き表さなければならないという使命があります。このため法律の条文の作成に当たっては、日常生活で使用される文書の作成の際よりも特段に高い厳密さ、正確さが求められます。法律の条文の文章は詳細・緻密なものであることが通常ですし、形式についても一定の型といったものが存在しています。さらに、法令用語を使わなければならないなど、様々な約束事、立法技術を踏まえて、その作成が行われているところです。
これらの約束事・立法技術等を指して「法制執務」という言葉が使われることがありますが、そのような約束事・技術を踏まえて起案が行われることから、一般の方にとっては法律の条文が「読みにくいもの」、「読む気がしないもの」と感じられるようになっているのではないかと思われます。
もっとも、どのような学問分野や技術分野でも専門的な用語があるように、法令の世界だけが特殊ということではありません。このようなことを念頭に置いて、少し余裕をもって法律に接していただければ、法律の条文を読む際に感じる苦痛もいささか減じるのではないかと思うところです。
なお、次のようにおっしゃる方もあるかもしれません。
「法典論では、『果して簡明正確なる法文を成し、人民をして容易く権利義務の在る所を知らしむるに足るや否や』と書かれているではないか?
読む気が起きないような法律の条文を書くようでは、『人民をして容易く権利義務の在る所を知らしむる』ことができておらず、問題ではないか!」
しかしながら「正確であること」と「分かり易いこと」とは、二律背反の関係にあるところがあります。また、法律の使命ということから考えれば、「正確性を損なわないことを前提にした上で、分かり易いこと」(言い換えれば、「不必要に複雑な条文となるようなことはしない」ということ)が求められているものと考えるところです。
なお、「分かり易い法律」という問題については、大正15年6月1日に内閣訓令として「法令形式ノ改善ニ関スル件」が出されているなど、実はかなり昔から改善のための努力が払われてきているところです。例えば、現在の法令では条文には見出しが付けられており、項には番号が付されていますが、これらは法令の平易化のために昭和20年代ごろから導入されたものです。
条例や規則などにおける二元素
「実質」と「形体」の問題は、当然、地方自治体の条例や規則など(以下「条例案等」といいます。)にも当てはまるものです。
条例案等の作成に当たっては、いろいろなことを勘案する必要があります。また、検討すべき事項も多々生じるところです。このため、案の作成作業を進めていくうちに、目前の論点にとらわれるあまり、ついつい大局的な見地から判断をするということがおろそかとなってしまうということにもなりがちです。そうなってしまうと、出来上がった案が「実質」に欠けるものとなってしまうおそれがあります。
逆に、施策として何をなすべきか、その場合にはどのような問題があるのか、といった条例案等の内容に気を取られ過ぎるあまり、その内容を実際に条文という形に具体化するプロセスがおろそかになってしまうということにもなりがちです。そうなってしまうと、出来上がった条例案等は「形体」に欠陥があるものとなってしまうおそれがあります。
「実質」と「形体」のどちらか一方に欠陥があるだけでも、その条例や規則などは、社会の役に立つどころか、社会に損害を与えたり、混乱を招いたりするようなものとなってしまいかねません。そのようなことにならないように、条例や規則などについても、「実質」と「形体」という二つの問題があるということを常に意識して、その案の作成が行われることが必要です。
社内規程などにおける二元素
立法とその性格は異なりますが「実質」と「形体」の視点は、民間の社内規程などにおいても有用といえます。
「実質」については、どのような会社もその運営を円滑にし、効率のよい業績向上をはかるために十分に検討されていることは論を待たないはずです。
一方、「形体」についてはどうでしょうか。もちろん法律レベルの「形体」が求められるものではないでしょう。
原則として社内という限定された世界で適用される規範であれば、社内で働く人の間においては疑義が生じないのであれば、例えば定義をすることなくある語句を使用するなどということも許容の範囲ではないかと思われます。
しかし、社内という部分社会に適用される場合であっても、関係者に明確に内容が理解されないようでは、その社内規程は規範としては意味をなさないこととなってしまいます。十分に「実質」は検討したはずなのに、それが社内規程として表現しきれていないという「形体」の問題があっては、苦労も水の泡です。
法律の「二元素」という原則を知ることは、社内規程などの立案の際にも示唆に富むものといえるでしょう。
現在は形体(一部実質)を補完するITサービスやシステム、支援ツール類も多数存在しております。
ご興味がありましたら、お問合せ又は営業へお気軽にご相談ください。
松永邦男
1979年4月旧自治省入省。2010年7月内閣法制局総務主幹。その後、内閣法制局第四部長、第三部長及び第一部長を務め、2017年3月退官。