コンピューター業界の片隅にひっそり生息するマニュアル制作会社ならではの、ニッチでユニークなコトバ使いを解説する連載記事「マニュアル業界用語解説」。今回のお題は「ポンチ絵」です。
そのルーツは文明開化の時代にさかのぼる
「ポンチ絵」という言葉は現代のビジネスシーンでもよく使われます。おおまかに言うと「ラフ絵」です。
古くは幕末から明治時代に日本国内に出回った西洋風の風刺が「ポンチ絵」と呼ばれていました。来日中の英国人によって 1862 年に創刊された風刺画雑誌「The Japan Punch」の書名を引き合いにして、「あのジャパン・パンチに載っているような欧米タッチの漫画みたいな絵」が、ぐっと簡潔になりしかも少々訛って「ポンチ絵」と呼ばれるようになったようです。
それが今では、いつしか「要点を簡略化した図解」を示す言葉としてビジネスシーンで使われています。正式な図説としてどこかに提出することはないけど、それによって示したいポイントだけは明示されているラフなイメージ図を「ポンチ絵」と呼ぶようになったわけです……と、ここまではインターネットとか Wikipedia でも見れば解説されている既知の事実。
これがマニュアル業界ではどうなるかと言いますと……ズバリ、イラストレーターに渡す下絵です。

読み手が目にすることはない単なる下絵
マニュアルのコンテンツはテキストだけでなく図説も含まれます。処理の流れを示すフロー図や、利用シーンを想起させる挿絵、サービスを構成する各要素の関係性を示す概念図、画面遷移図……マニュアルには実にいろいろな種類の図説がありますが、もっともイメージしやすいのは製品のイラストです。
製品のイラストもまた、本文の説明文と連携して読み手に何らかの操作や説明をする役目を持ちます。なので、製品の向き (アングル) など、どのようなイラストにするかは主にライターが原稿の一部として考えます。その仕上がりのイメージをイラストレーターに伝えるために用意するのが「ポンチ絵」という下絵になります。

あくまでも下絵であり、成果物に掲載されるのはイラストレーターの手によるイラストですから、ポンチ絵自体が世に出ることはありません。現代のビジネスの場で言われる「ポンチ絵」は、正規のイラストではないが相手に要点を伝えるために使われる、いわばそれ自体が最終形態として完結するものですから、ここがマニュアル業界でのポンチ絵と本質的に違うところかもしれません。
ライターとイラストレーターの涙の結晶
このポンチ絵ですが、描く側としては、どのくらいまで絵を描き込むかのさじ加減が難しいのですよね。
「下絵なのだから要点さえわかればよい」「上手に描かなくてもよい」「下手でもいいから」とイラストレーターからは言われます。ところが実際は、「こんなポンチ絵じゃわからん!」とイラストレーターに盛大に叱り飛ばされるのが駆け出しのライターのほぼ通過儀礼と言っても過言ではありません。「下手でよい」けど「ちゃんと描け」という、相反する要求を両立させないといけないのですから、勘どころが身についていない駆け出しとしては困惑の極みです。
それでムキになって定規で線を引いて実機の模写をしたりするのもまた通過儀礼みたいなもの……ですが、重要なのはそこではないのですよね。何度か修羅場を潜り抜けて場数を踏むうちに、いつのまにか自然と肩の力を抜いて「要点を巧みに抑えた」ポンチ絵を描けるようになりますから、経験がいかに大事かがよくわかります。

ポンチ絵で下絵を描くことになる「マニュアルに掲載されるイラスト」も、ユーザーに対する操作説明の一部です。「見せかた」までをライターが考えた結果がそこに投影されてしかるべき存在です。開閉するカバーがあるのならそのカバーが開いている状態が見える構図にしないといけませんし、端子部にケーブルを挿す操作があるのならその端子が見えているアングルのイラストにしないといけません。そのアングルはできるだけ揃っていたほうが読み手にとって負担が少ない……などなど、考慮・熟慮した結果が凝縮されいるのが理想的なポンチ絵と言えます。そこさえクリアできていれば、ポンチ絵自体はどんなに下手でもかまいません。キレイなイラストに仕上げるのはイラストレーターの役目ですから。
そして、ポンチ絵が「下手な絵」でもよいとされるのは、実はイラストレーターに渡すときにポンチ絵だけではなく必ず「製品の外観と各部の細部がわかる」資料を添えているからだと言えます。ポンチ絵はあくまでも仕上がりの青写真を示すためのものなので、それとは別に対象物の「できるだけ正確な外観と部位がわかる」資料が不可欠です。マニュアルは製品開発中に制作されるものなので、イラスト制作時点で入手可能なものを最大限に有効利用することになります。

本当の意味での製品の姿 (外観の最終形) はわからないわけですから、イラストレーターからしてみれば、渡された資料を基に脳内でその姿を想像しながらイラストを作成することになります。平面図なら CAD の三面図・六面図のとおりに描けばよいですが、斜めから見た様子などの立体図はアタマの中で立体イメージを思い描きながら作業をします。ここで「その構図どおりの写真」があれば、その写真を下に敷いてトレースしながらイラスト作成すればよいのでとても助かるというのが偽らざる本音です。
ところが、ポンチ絵とともに渡された実機写真が高い確率で「盛大にピンボケ」となっているとイラストレーターとしてはゲンナリです。製品の手前から奥に向かって角度がきつくなっている (いわゆる「パースが効いている」) とそのままトレースできなくてもはや泣くしかありません。ポンチ絵だけでなくその参考資料も手厚く準備して差し上げないといけないのでした。

ポンチ絵で校正出しをするという荒業
下絵とはいえポンチ絵は、いわば仕上がりのイメージを示すものですから、手書きのポンチ絵をスキャンして画像にして Word 原稿に挿入すると、原稿のテキストといっしょにビジュアルイメージも確認できてグッと臨場感が湧きます。自分が推敲するときも、他者にチェックしてもらうときも、ポンチ絵程度であっても原稿の中にあったほうが内容を掴みやすくなります。
ポンチ絵と参考資料を完備したうえでイラスト原稿を作成するのは相応の時間がかかりますから、そこに時間をかけすぎるといつまでたってもイラストレーターがイラスト作成を開始できないことになります。イラスト原稿だけ先に用意するのが理想ですが、本文と密接に関係するイラストだけ先行して抜き出して進めるのもまた至難の業です。そこで、原稿レベルのチェックという大義名分のもとでポンチ絵を掲載して済ませることで、イラスト作成のための時間稼ぎができます。なんとなれば、イラストが間に合わなかったらポンチ絵で DTP 組版してもらってもよいわけです。その場合はさすがに「イラスト作成中 (あとで差し換え)」と申し送りをしたうえで校正提出しますけど。

残念ながらこれが通用するのはせいぜいマニュアル担当者までで、その向こう側に控える人たち、すなわち「もっと強い発言力をお持ちの関係部署」に対してこのような原稿でご確認いただくのは厳しいとされます。昔、それでヒンシュクを買ったことがあったかなあ、ヘタウマ感満載のポンチ絵を臆面もなく原稿に放り込んだからなあ…… (遠い目)。

最後にちょっと舞台裏
ところで、ほかならぬこの連載記事の挿絵も、何をかくそうポンチ絵から生まれているのでした。しかも執筆者 (パワポでポンチ絵作成) → アートディレクター (手書きでラフスケッチ作成) → イラストレーター (ラフに沿ってイラストデータ作成) という三段構えです……と、ほんの少し記事作成の舞台裏を披露してこの記事を終わりたいと思います。


