この記事が公開される頃は、あの大谷選手が日本で試合をするという話題で持ち切りだと思います。いよいよ野球シーズンのスタート、「球春」到来です。
かの俳人正岡子規は大の野球好きで、「まり投げて 見たき広場や 春の草」という俳句を詠んでいます。春の草が生えている広場を見て、野球をイメージしたのでしょう。球春を待ちわびている様子がうかがえます。

その正岡子規、実は野球用語の翻訳にも携わっていたそうです。野球はアメリカ発祥のスポーツで、それが日本に伝来しました。当然ながら用語は英語だったので、それらを翻訳して日本人にもわかる用語にしたのですが、前例のないことだったので並々ならぬ苦労があったのではと推測します。その甲斐あってか、「打者」(batter, hitter) や「走者」 (runner) などの言葉は現在ではすっかり定着しました。
弊社でもマニュアルをはじめとした翻訳業務をしていますが、ソフトウェアの画面に表示される文言やメッセージの翻訳もしています。そのような翻訳業務を「UI翻訳」と呼んでいます。「UI」とは「ユーザーインターフェイス」のことで、広義的にはユーザーと製品との接点(インターフェイス)すべてのことを指しますが、この記事では前述の通り「画面に表示される文字」を「UI」として説明します。
UIについてはこちらの記事 に詳しく書かれていますので、ご参照いただけたらと思います。
そのまま翻訳すればいいわけではない
UI翻訳業務は、翻訳対象の文字列をExcelなどのリストでいただくケースがほとんどです。そしてそれらを翻訳するのですが、ファイル→File、編集→Editのように文字列をそのまま翻訳すればいいと思っていませんか?
実は、そのまま文字だけを見て翻訳すると誤訳につながるおそれがあるのです。
「ファイル」を “File” に翻訳してなぜ誤訳になるんだ?!と思うかもしれませんが、理由があるのです。
それは...
UI文字列には開発者の思いが詰まっているから!
まるで5歳児に叱られるテレビ番組のような答えになってしまいましたが、そうなのです。
大げさな言い方をしたかもしれませんが、開発者はメニューを選択したりボタンをクリックしたりして起こる事象を、画面のレイアウトを考慮して制限文字数内に収められるようにメニュー名やボタン名を考えています。そういった努力が凝縮された結果がUI文字列なのです。
したがって、この「事象」を理解したうえで翻訳しないと、本来の意味からずれた訳語になってしまいます。

どっちに翻訳すべき?
具体的な例を挙げてみましょう。
Add or Register?
ボタンの文字列の「追加」という日本語を英訳する場合で考えてみます。
文字だけで翻訳すると “Add” となります。しかし、このボタンをクリックしたときの動作がアカウントをシステムに追加するということだと、「登録」を意味する “Register” の方が適しているかもしれません。ボタンの動作がわかる情報がほしいところです。
Minimum or Minute?
次に、“Min.” という英語の文字列を他言語に翻訳する場合で考えてみます。
末尾にピリオドがある文字列は何かの略称です。画面のスペースの都合上、文字数が少なくなるように略称を使っています。
翻訳時に提供された情報が、“Min.: 10” のようにこの文字列の後に数字が入るという情報だけだとどうでしょうか?「最小」を意味する “Minimum” と「分」を意味する “Minute” の両方が考えられそうです。どちらが正しいかを判断するには、さらに情報が必要です。

開発者の思いをくみ取るために「情報」を!
UI翻訳で迷ったときは、文字列の提供元であるクライアントに問い合わせて確認しますが、都度やり取りが発生して非効率的な作業になりがちです。また、翻訳者が迷わずに自己判断で本来の意味ではない方で捉えて翻訳すると、意図しない言葉がソフトウェアに実装され、世の中に出回ってしまいます。
そのようなことを事前に防ぐには、文字列に関する「情報」を知っておく必要があります。そのための材料として、以下のものを文字列と一緒にいただけると、文字列の本来の意味を理解する、ひいては開発者の思いをくみ取るための一助になります。
- 仕様書
- 画面
- 動作確認できるソフトウェア、提供が難しければデモ実演
- 説明会
私たちはこれらの材料を参考にして、以下の通りにソフトウェアの仕様や動作を把握し、文字列の意味を確認します。
- このメニューを選択したら、あるいはこのボタンをクリックしたらどんな動作をするか
- このメッセージはどんなときに表示されるか
- このチェックボックスは何のためのオプションか、チェックを入れたら何ができるか
そして翻訳者への翻訳依頼時にそれらを補足情報として提供します。
翻訳者は補足情報を確認して本来の意味を把握して翻訳するため、より正確な翻訳をすることができるわけです。
具体例を、前述の例に合わせて説明します。
「追加」ボタンの英訳
そのまま翻訳すれば “Add” 、でも場合によっては “Register“(登録)の可能性もありますが、
ボタン名です。クリックすると入力した情報がアドレス帳に追加されます。
という情報を提供すれば、翻訳者は
なるほど、アドレス帳に追加なら「登録」を意味する “Register” に翻訳しよう
と判断できます。
“Min.” の他言語翻訳
“Minimum”(最小)と “Minute”(分)の両方が考えられますが、
“Min.:” の後に数字が入ります。処理を開始するまでの待ち時間を入力します。
と教えてあげれば、
「時間」ということは、この “Min.” は「分」の “Minute” だな
と翻訳者は理解できます。この場合は、「”Minute” の略称です。」とさらに伝えてあげれば確実です。

冒頭で野球の話をしたので、野球用語のネタを1つ。
野球をあまり知らない人でも「デッドボール」という言葉は聞いたことがあると思います。ピッチャーが投げたボールがバッターに当たるというプレーです。これを英語で “Dead ball” とアメリカ人に言っても通じません。正しくは “Hit by pitch” と言います。直訳すると「投球によって当てられる」なので、プレーの事象を説明した訳になっているのです。
「デッドボール」は日本語訳の「死球」をそのまま英訳した和製英語で、その「死球」は正岡子規によって “Hit by pitch” から翻訳された用語です。「投球がバッターに当たる」という事象を日本人にも理解でき、かつ簡潔な言葉に訳したところに、彼の血のにじむような努力が感じられます。それなのに、和製英語の方が広まってしまったのは彼の本意ではなかったかもしれません。
開発者の思いを全世界へ
このように、UIの翻訳は単に文字列の文字部分だけを翻訳すればいいのではなく、その本来意味するところを踏まえて翻訳しなければならないこと、そのためには本来の意味を把握するための補足情報が必要であることをご理解いただけたら嬉しいです。
開発者の思いが詰まった文字列は、翻訳者へ渡って翻訳されます。そして翻訳された文字列はソフトウェアに実装されて、全世界のユーザーの目に入っていきます。まさに「開発者の思いが全世界へ」となるのです。そして、私たちはその橋渡し役ができればと思っています。
この作業、まさにキャッチボール。正岡子規もそんな感覚で野球用語の翻訳に携わっていたのかもしれませんね。
